ふと或ることをキッカケに集会(いわゆるミサ)に行って来ました。
Twitterでは懺悔なんて大それて書いてましたが、本当に興味本位に注がれての参加でしたが
自分自身、特に熱心でもない仏教徒である故、これはかなり勇気も居るし特別な体験の一つだったと思えました。

何だろう、とても当たり前のことであるとは思うけど、熱心なキリシタンの人を産まれて初めてまざまざと見て
この歳になってからようやくこの国の宗教に関する適当さと熱心に捉える必死さを目にすることが出来たのが結構衝撃的。

別にね、勧誘とか匿名性ってことも自分さえ気を張って接していればとても集会自体は気を張って、生きることに対して熱心で平和的な活動の一つなのだなと判断出来るものだと思えたし、この集会に集まる人の親切さはさも当たり前に自発的に生まれてるなと感じる程悪意も独善さも感じられなかった。或る意味此処ではとても自然でいて秩序に拠って守られた世界なのだなと思った。

個人的にはね、別に誰も求めてないのに宗教って有り難迷惑でなんと傲慢なヤツの集まりなんだろうか。
「別に自分さえまともに生きていられれば誰も文句も言われないし、言われる筋合いもなくね?」
と思って生活をしてた人間としては世界がどうであろうとかやっぱり大多数の人間は保身的でありつつ自己中心的な存在であるかってのを恥ずかしむことになるかもなーと思えました。

大多数の人と話をする時は「政治と宗教と野球の話はするな」と良く題材に出ますが、ほぼ大体の人はこれらを平気で避けて行けるし、然程興味もない事柄の一つとしてぬくぬくと生活してるんじゃないかなぁと思えるかな。(だからと言っていちいち各必要もないけど)


「自分はれっきとした○○教の教徒だ」と言える人以外は自分の生涯に縁のない教えの集会に行っても然程バチもクソも無いと思われますよ。
まぁあくまで経験したというだけの話なので、責任は一切持ちませんが・・・。

いずれにせよ、もっと生きる事や死ぬことに執着を持っている人が居るのだなと僕個人的には強く感じました。
タブーな話で申し訳ない。
ただ、僕は自分が正しく在る様にしか行動はしないのは変わりません。